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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 R 『-そのたびごとに、新しく-』 |
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マルコによる福音書14: 17-26 (コリントの信徒への手紙T11:
23-28) |
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9月 7日 2008 |
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 Q 『-自分の務めを果たす-』 |
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テモテへの手紙U4: 1-5 |
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8月 31日 2008 |
長崎教会の中心におられる方は、主イエスキリストです。また世界中の教会の中心におられるのも主イエスキリストです。私達は、今主イエスキリストに忠実に従うこの人生の歩み、教会の歩みについて毎週共に教会の礼拝を通して学んでいます。本日は、長崎教会『信仰告白』6、新約教会の最後の部分「..新約教会の役員は牧師と執事であり、その職能はテモテとテトス書が示す通りである」という箇所より、教会の中での牧師と執事の役割について学んで参りたいと思います。パウロの書いた第1テモテ3:1〜7、及び8〜13節の中では、監督の資格、奉仕者の資格について語られています。ここで共通していることは、教会に集う人たちを教え育む必要があるということです。家庭の中で親が子供を教え、育むようにただ愛情だけを注ぐだけでは十分ではありません。時より神の裁きについて語らなければならない時もあると思います。もし間違った方向に向かっている人がいるならば、親が子供を必死の思いで正しい方向に向かわせるように、信仰の歩みにおいても、私達は、キリスト者として信仰の思いを伝えていかなければなりません。本日の聖書の箇所では、パウロは、テモテにそして私達に「どんな状況にあっても主イエスキリストは私達と共におられることを述べ伝えていかなければならない」と力強く語っています。バプテストではキリスト者は、一人一人が奉仕者であり、宣教者であると言われています。家庭においても、またどこにあってもその役割を恐れずに担っていきたいものです。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 P 『-聖なる"教会の目的"-』
サドルバック教会短期宣教チームの証と賛美(Saddleback
Church P.E.A.C.E. team)
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出エジプト記40: 34-38 |
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8月 24日 2008 |
本日は、アメリカのサドルバック教会の兄弟、姉妹を迎えて礼拝を守ることができることに感謝します。本日は、また北京オリンピックの閉会式でもあります。閉会式というと聖火が消える瞬間でもあります。オリンピックは限られた期間ですが、私達の信仰の火は決して消えることはありません。長崎教会も信仰の灯が消えることなく106年続いてきました。本日の聖書の箇所出エジプト記40:34では、主の幕屋つまり今で言うと教会のことを語っています。私達は、61年前に書き記された長崎バプテスト教会の信仰告白をシリーズで学んでいますが、本日は、教会の目的は何であるのかを見ていきたいと思います。1つ目は「聖なる交わり」です、次に「礼典(バプテスマ/主の晩餐)」、最後に「聖支配に従う」ことであります。2008年の本教会の目的は、サドルバック教会のリックウォーレン牧師の著書「人生を導く5つの目的」の中で記された5つの目的にされに2つ加え7つの目的を掲げています(@礼拝A教育B伝動C奉仕D交わりE祈りF休息)。本日の聖書の箇所、出エジプト記40章、34〜38章では、私達がどれだけ忠実に主の命令に従うかどうかが試されています。聖なる教会の目的とは「主に従う」ことです。神様が私達のために準備しておられることに素直に従うことです。本日は「主に従う」ということはどういうことなのかさらに深く学んでいきたいと思います。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 O 『-自ら決断する-』 |
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コリントの信徒への手紙U 9: 6-8 |
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8月 17日 2008 |
現在、北京オリンピックが行われています。1つ気がついたことに、オリンピック選手の2世の活躍です。また、多くの選手が家族愛に支えられて活躍しています。そのような選手達は、より望ましい環境で育ちましたが、しかし最終的には、自分たちが種目を選び、オリンピックを目指す決断をしました。教会においても、クリスチャン2世と言われる人が多く育まれてきています。たまたま生まれた家がクリスチャンホームであり、気がついたら毎週教会に来ているという人もいると思います。たまたま行った教会がバプテスト教会であったとしても、バプテスト教会で大切なことは、「自ら決断」して洗礼/バプテスマを受けなければならず、教会の信仰の基盤にあります。長い歴史の中でカトリック、またプロテスタントの教会の中には、親の意思で幼児洗礼をすることがあり、クリスチャンホームに育てば、みなクリスチャンになるということもあります。しかし、バプテスト教会は、子供が自ら決断して選び取るまでは、親であっても決して信仰は強要しない、信仰は親が与えるものではないということを大切にします。それは、私達人間がその命の行先を決めるものではないからです。神様に全てを委ねるのです。本日は、「自ら決断する」信仰の大切さをさらに深く学んでいきます。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 N 『-永遠の神-』 |
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ヘブライ人への手紙 5: 7-10 |
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8月 10日 2008 |
本日は、「信じる」「永遠」という言葉に焦点を当てて御言葉を分かち合いたいと思います。「信じる」という行為には2つの段階があります。第一段階は、自らの体験を通して「信じる」ということです。第二段階は、自らの経験を超えて「信じる」ということです。私達には、体験できないことを信じる、つまり天の国のことです。死を超えて永遠の命があるということを私達が体験によって信じるということは私達にはできないことです。私達が、永遠の命を信じる、見えない神を信じるということは「信じる」という行為の第二段階のステップをふまないといけないことであり、また私達の決断にあり、まさに見えない神の聖霊の御業であり、神が働かなければ決して自分の力ではできないことであります。イエス様が御子としてこの世に遣わされた目的の1つは、私達人間に「永遠」という世界を伝えるためであったことを私達は御言葉を通して知らされています。また、イエス様は、私達人間と同じような肉体の苦しみ、死への恐怖も味あわれ、十字架で苦しみを受けられました。本日の聖書の箇所、へブル人への手紙5章7〜10に語られていますが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、私達に永遠を思う思いを呼び起させる出来事の1つでした。またイエス・キリストの生涯をみる時、ラザロの死からの復活など、イエス様が数々の奇跡を起こされたその目的は、私達の信仰、永遠を思う信仰を呼び覚ますためでありました。本日は、そのことについてさらに深く学んでいきたいと思います。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 M 『-平和と聖化-』 |
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マタイによる福音書 25: 1-13 |
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8月 3日 2008 |
「聖化」という言葉は、「聖なるものとされていく」という意味でホーリネス教会ではよく使われますが、バプテスト教会では、「聖霊の充満」「聖霊の満たし」という言葉が使われます。第2次世界大戦中、教会の礼拝の前に、アジアの中で、日本が一番とする天皇を神とすることを是として礼拝をしました。戦後、そのことを悔い改め、長崎教会『信仰告白』が書かれ、今その内容をシリーズで学んでいます。本日は、「聖化」という言葉を学んでいきます。聖化とは、信仰が燃やされ続けるという意味です。イエス・キリストを信じたとき、罪が赦されますが、私達は神様に喜ばれる生活をおくるよりも、神の子とされているにもかかわらず、肉の弱さ故、惰性の中で信仰生活を送り、神様、信仰生活を優先させることができないことが多々あります。キリストに似るものに、また一歩ずつ日々神に喜ばれる生き方を続けていくのが大切です。本日の御言葉、マタイによる福音書25章1〜13節は、私達が神の門の前に立ったとき、安心して御国に入るにはどうしたらよいのかということを今一度問いかけてくれます。キリスト者として、神の前に色々な闘い、つまずいたこと、そむいたことなどたくさんあると思います。しかし、最後に、神の御国に入ることができ「ありがとう」と言えるような生き方をしなさいとイエス様は私たち一人一人に語られています。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 L 『-全人的信仰-』 |
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ペテロの手紙一 1: 13-16 |
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7月 27日 2008 |
一体私達は、脳の何パーセントを使って生涯を終えるのでしょうか?実は、一般的には3〜10%、アンシュタインでさえ12%だったらしいと言われています。私達は神様から与えられているものを想像以上に使い切っていないようです。聖書テサロニケの信徒への手紙T5章23節では、「…あなたがたを全く聖なる者として下さいますように。また、あなたがたの霊、魂、体も何一つ欠けたところのないものとして守り、私達の主イエス・キリストの来られる時、非のうちどころのないものとしてくださいますように..」とありますが、多くの人が、神に与えられる聖さを使うことなく生涯を送っているかもしれません。教会生活は、子供からお年寄りまでお互いに刺激しあい、体が活性化されます。私達は弱く、罪深く小さい存在ですが、聖書、イエス様の聖さ、神の全能を通し御業を見ること、また神の聖さ、力にふれることにより、私達が高められていきます。聖書の中には、「全く聖なるもの」の表現が何箇所もあります。「聖なるもの」とはギリシャ語ではハギオスと言い、へブル語では「神に選ばれた」「神のものとなる・・Holiness神の所有となる(聖くなる)」という意味が含まれます。聖書は私達に、全人的に、全てを祈り、愛し、信じる..そのように生きなさいと祝福して下さっています。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 K 『-救いのステップ-』 |
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ペテロの手紙一 1: 3-11 |
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7月 20日 2008 |
本日は、ペテロの手紙21章3〜11節を学ぶ前に、ヨハネ3章1〜3節のイエス様とニコデモの対話が描かれている箇所に少し触れたいと思います。ニコデモは、ユダヤ教において特別な地位にありましたが、イエス様に、「地位、歴史的知識、神学的知識がたとえあっても人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」と言われ衝撃を受けます。「新たに生まれる」とは、日本語では「新生」、英語では、「Born
again」と呼ばれる。キリスト教は、輪廻を説かないゆえ、人生は一度だけ、その中で生まれ変わるように聖書は私達に語りかけます。長崎教会『信仰告白』シリーズD(悔い改め、信仰、新生、聖化、選び)「人は救われるためには真剣なる罪の悔い改とイエスを救い主と信ずる絶対信仰により再生しなければならない」と救われるために2つのステップが記されています。ここでいう絶対信仰とは、信仰生活をしていく上で、徹底的な信仰、自分自身が持てるだけの信仰を持って信じるということです。聖書は、信仰は感情ではなく神の恵みであると語っています。本日の聖書の箇所、ペテロ第1の手紙1章3〜9では、ペテロは、私達が天国に帰る時、私達の肉体の弱さ不完全さが、イエス様に贖われて初めて完全な救いを得るということをステップごとに表しています。このステップを踏んでいく時に私達は完全な救いを得るのです。本日は、その救いのステップについてさらに詳しく学んでいきます。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 J 『-恩寵〈神の一方的な恵み〉-』 |
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エフェソの手紙一 2: 7-10 |
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7月 13日 2008 |
「棚から牡丹餅」という言葉は皆さんも聞かれたことがあると思います。これは、「思いがけない幸運が与えられる」と一般的には解釈されますが、最近では「たなぼた式」と言い、元々の意味から正反対の、「努力をしないで何かを得ようとする」というあまり肯定的ではない意味に解釈される時もあるようです。本日の礼拝では、「恩寵」という言葉を学んでいきます。これは、違う言葉で言うと「神の一方的な恵み」という意味が込められています。長崎バプテスト教会「信仰告白」四、贖罪と義認にも恩寵についてこう書かれています「…..イエスの贖罪の死と復活を信ずる信仰によりてのみ全き救いを受け、永遠の生命に至る。これは神の恩寵のみによるものにして人の業にあらざらるを信ずる。」 これは、私達が救いに預かれるのは、決して私達の努力であったり、りっぱであるから、人より優れているとかの理由ではなく、ただ神様の一方的な恵みによるのであるということを語っています。本日の聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙2章7〜10節「…事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではな、神の賜物です。」とありますが、私達は、神様からいただく恵みを受けとめ、神様に従い、信仰によって祝福を受けつつこれからも歩み続けていきたいと思います。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 I 『-愛するがゆえに-』 |
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ヨハネの手紙一 2: 1-2 |
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7月 6日 2008 |
先日の秋葉原のような事件が起こると、私達はいろんなことを思わされます。一体どうしてあんなことが起きるのか?一体人間とはどんな存在なのだろうか?日本社会では、「人間とは?」と尋ねると儒教の影響もあり、性善説、性悪説の2つに区分されます。キリスト教においてもカトリックが長く原罪という言葉を使ってきたため、それはよく誤解され子供を悪魔のような捉え方をして躾をしてしまったというようなことが歴史にも残っています。本日は、「愛するがゆえに」というタイトルで、長崎教会「信仰告白シリーズI」を学んでいきます。「信仰告白三、人間の堕落では、「我ら人間は神の像にかたどり、聖き創造されたが、神への不従順により、罪に堕ち、永遠の滅亡に定められたことを信ずる」とあり、まるで私達が永遠の滅亡に定められたようですが、本日の箇所、「信仰告白四の贖罪と義認」とTヨハネの手紙2章1〜2節を読むと、私達人間は、神に似せて造られ、神が唯一の存在であるように私達も唯一の存在であり、神は、私達人間に霊、命の息を吹きいれ聖いものとして下さいましたとあります。しかし私達はその神の言葉に従わず自分勝手な生き方をしてしまいましたが、神様はひとり子イエス様を送って下さり、「愛するがゆえに」どんな罪人であっても、イエスキリストが十字架で死んで復活されたことによって、私達は、「それを信ずる信仰よりてのみ」全き救いを受け永遠の命に預かれることをさらに学んでいきます。
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ヨハネによる福音書 12: 23-26 |
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6月 22日 2008 |
本日は、奥村愛牧師(多良見伝道所)が多良見伝道所への献身を訴える思いを携えて宣教のご奉仕を担って下さいます。本日の聖書の箇所ヨハネ12章23〜26節は、イエス様が十字架にかけられる前に、兵隊たちがイエス様を捕らえようとする直前の出来事が書き記されています。23節でイエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」と言っておられますが、イエス様が言っておられる栄光とは、弟子たちが思い描いていたようなきらびやかなものではなく、イエス様自身が十字架にかかって、よみがえられるということを意味していました。24節「よくよく言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」では、イエス様はご自身の十字架での死のことを話しておられます。これは、イエス様が、死と復活を通して私達に下さっている希望のメッセージです。それでは、私達にとって一粒の麦として地に落ち、死ぬということはどのようなことを意味するのでしょうか?自分の人生には悔いなしと最期の時に言えるのは、何をしてからなのでしょうか?私達はひとりひとり、御言葉の前に砕かれ日々造りかえられています。本日は、私達にとって一粒の麦として落ち、死ぬということはどういう意味であるのかをさらに深く学んでいきます。
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ヨハネによる福音書 21: 15-19 |
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6月 15日 2008 |
PowerPoint付きSlides
本日は、国際ミッション・ボランティアとしてルワンダに派遣されている佐々木和之氏に「赦しと和解―条件付き『無条件』の間でー」と題して宣教のご奉仕を担っていただきます。ルワンダでは、1994年4月〜7月の100日間に、フツ族とツチ族の間の抗争により大虐殺(80万人以上)が起こり、それに伴って大量の難民も出て、両部族間に深い憎しみの傷を残しました。佐々木氏とそのご家族は、主イエスの招きに応えてルワンダの部族間の「和解の働き」のために2005年秋より、現地のキリスト教NGOのREACH(Reconciliation
And Christian Healing for RWANDA)の一員として働いておられます。本日は、佐々木氏より、大虐殺の当事者同士が同じ村や町で共存していく困難さ、被害者の癒しと生活の再建、加害者の更生、両部族の関係修復について、フツ族のアグネスさんの体験と彼女の加害者に対する勇気ある赦しを通して少しずつ和解に向けて神様が働いておられることを分かち合っていただきます。皆様にも、ルワンダの人々と共に、平和と和解のために祈り、行動していく連帯の輪に加わっていただきたいと願っています。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 G 『朽ちない種を持つ者』 |
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ペトロの手紙T 1: 22-24 |
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6月 8日 2008 |
「私たちは一体何者なのでしょうか?」 「野の花をみなさい」とイエス様が言われたように、私達の身近にあるさまざまな物を見ていく時に、神様の不思議な、また特別な摂理に私達は気づかされるときがあります。1つの種を植えると、それがやがて多くの実を結ぶように、子供たちも今は小さい存在のように見えても、これから世の中に遣わされて行って成長していく時に、私達には想像できないほどの大きな力とまた主の働きを担っていくこと、また必ず神様が子供たち一人一人に大きな計画を立ててくださっていることを信仰生活、神様の励ましの中で知らされます。しかし私たちは、どんな生き方をこの世でしても、いつかは朽ち果ててしまう身であることも知っています。本日の聖書の箇所、Tペテロ1:23〜25「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない言葉によって新たに生まれたのです…主の言葉は永遠に変わることはない。…」で語られているように、私達はイエス様が死んで蘇られることによって、新しい命が与えられ、朽ちない種へと変えられました。私達は、ただ種を持っていても成長することはありませんが、種を土の中に植え育む時大きく成長します。私達は朽ちない種をいただいたことをパウロから学びました。ただいただくだけでなく、神様は、私達に「この種を勇気をもって播きなさい、育てなさい」とおっしゃています。
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ヨシュア記 1: 12-18 |
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6月 1日 2008 |
本日は、サンフランシスコ19街教会の栗山信夫牧師をお迎えして「喜びの人生の秘訣」と題して宣教をいただきます。「いつも喜んでいなさい。繰り返して言うが喜びなさい。」これは、牢獄の中にいたパウロが送った手紙です。牢獄に入れられていたにもかかわらず手紙の最初から最後まで喜びで満たされていました。本日は、パウロの喜びの秘訣について学んでいきたいと思います。パウロの第一番目の喜びの秘訣は、「イエス様との出会い」によるものです。パウロは、イエス様を以前は迫害していましたが、イエス様に出会うことによってどれだけ自分自身が変えられたかを喜びを持って多くの人々に伝えていきました。第2番目は、「交わりからくる喜び」です。パウロは、神様との交わりを非常に大切にしている人でした。どんなに忙しくても神の御前に静まり、祈りを通して、御言葉を通して神様との交わりを大切にしました。第3番目は、「パウロの伝道」によります。パウロは、牢獄の中で最悪の状態におかれていましたが、多くのローマ兵士に福音を伝え、次々に兵士たちが救われました。最後の秘訣は、「キリストの御名があがめられること」です。パウロは、イエス様に出会う前は、プライドの高い者であったと言われています。イエス様との出会い、交わりによって、自分自身がいかに小さく、弱く、罪深い者であるかを知らされました。パウロはことを通して、こんな自分でも主が御用のために尊く用いて下さることを心から喜び感謝しました。私たちも、このパウロの喜びの秘訣に習って、イエス様に最初に出会った喜びを決して忘れずに、人生を通して信仰、愛、喜びにたって歩み、一人でも多くの方にイエス様のことを伝えるものでありたいと思います。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 F 『「愛なる神」を信じる』 |
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ヨハネの黙示録 5: 6-14 |
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5月 25日 2008 |
皆さんは、「神を信じておられますか」と尋ねられたら、どのように答えるでしょうか?とっさに「信じます」「信じません」との返事が頭に浮かんでくるでしょうか?実は、「神様」と言うとき、神様に対するさまざまな概念、信仰、思いが私たちの周りにはたくさんあります。クリスチャンでも答えは同じではないかもしれません。聖書に書かれている神様がどんなお方であるのかを私たちに知らされていることは、私たちにとって大きな祝福です。私達の前に存在する神は、言葉などで表現できる小さい神ではなく、「長崎バプテスト教会」―『信仰告白』(1947)二の「真の神」にも表わされているように「…聖きと恵みと愛の完全なる具現者、又父、子、聖霊なる三位一体の神…」一言で言い表わすなら「神は愛」です。私たちは、その愛に日々生かされています。私達にできることは、神に創られたように生きればよいのです。人生で一番大切なことは、互いに愛し合うことです。本日は、「愛なる神」についてさらに深く学んでいきます。
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申命記 15: 7-11 |

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5月 18日 2008 |
本日は、日本国際飢餓対策機構の田村治郎総主事をお迎えして「開かれた心、開かれた手」と題して宣教を頂きます。10月16日は、国連が設定した世界食糧デーです。日本でも毎年全国30か所近い所で、世界食糧デー大会、集会、または教会単位の食糧デー礼拝などが持たれています。私たちは、世界食糧危機の問題、飢餓や貧困の問題などをただ考え知るだけではなく、その世界に共に生かされている私たちが本当の意味で隣人としてどう生きていくかをさまざまな大会、礼拝を通して考える時を持ちます。イエス様は平和を愛する者を幸いとはおっしゃいませんでした。イエス様は平和を作り出す者を幸いとおっしゃいました。私たちクリスチャンは、このように他国で起こっているさまざまな問題を自国のあるいは自分の問題として考える時、私たちにできることは何であるのか、たとえ小さなことでも私たちひとりひとりに実行可能なことを行うことによって、問題のただ中にいる隣人を救うことができると神様は私たちに語っておられます。また他国の隣人だけでなく、私たちの日常生活の中にもありとあらゆるところにさまざまな悩み、問題を抱える隣人がいます。私たちは、民のうめきを聞く耳となっているだろうか、私たちの足がそのうめいておられる人にかけよっていく足になっているだろうか、神様の手となり足となっているだろうか、私たちは、今一度そのことを問うてみたい。私たちは、神様からいただいた恵み、祝福、イエスキリストこそ救い主であるという真理を隣人にお届けし共に生きる、そのことをもっと真剣に考え、行いで表していきたい。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 E『「全知・全能の神」を信じる』 |
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ヨハネの黙示録 1: 4-8 |

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5月 11日 2008 |
皆さんは神様を呼びかける時また祈る時にどのように声をかけておられるでしょうか?私たちは、神様にいろいろな呼び方をして祈ります。また聖書の中にも神様に対する呼び名は多くあります。神様は、どんな呼びかけをしても、私たちに答えて下さるお方です。イエス・キリストは、父なる神のことを「お父ちゃん」「アバ父よ」と呼ぶように、また子供が「パパ、ママ」と呼ぶように、私たちも神様に「お父ちゃん、パパ」という呼び名で祈りなさいと教えて下さいます。また、私たちひとりひとりが、神様と関わっていくことがどれだけ大切であるのかも教えて下さっています。「長崎バプテスト教会」―『信仰告白』(1947)二の「真の神」には、「…神は無限にして全知、全能編在の霊にして天地の創造主….」とあります。私たちの父なる神は、私たちがまだ父を知らない前から、私たちひとりひとりのことを知っていて下さり、関わって下さっています。私たちが、いろいろな体験を通して、神様は私たちのことを全て知っていて下さる、私たちはひとりではない、主が私たちのことを生かして下さっていることを知る時、主がまた私たちと深く関わって下さり、私たちのことを愛して下さっていることを知ります。本日は、全知、全能であられる神様の愛についてヨハネの黙示録1:4〜8、詩篇139:13〜16、ルカ12:6〜7を通してさらに深く学んでいきます。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 D「 『唯一の神』を信じる」 |
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コリントの信徒への手紙T8: 1-6 |

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5月 4日 2008 |
「神様」と言った時、みなさんは一体どのような神様を想像されるでしょうか? 「長崎バプテスト教会」―『信仰告白』(1947)二の「真の神」には、「我らは唯一にして真なる生ける神を信ずる。…」とあります。本日は、特にこの「唯一」という言葉をさらに深く学んでいきます。神様の概念は国によって異なりますが、日本では神様というと万の神が頭に浮かんできます。韓国の場合は、「一の様」と呼ばれ、唯一の神様を意味します。私たちは、自分たちの中に、「神様というお方はこういうお方だ」ということを明確にもたなければなりません。申命記6章4〜5節、マルコ12章28〜31節を通して、私たちは、愛するということは、神様だけを愛するのではなく、私たちの隣人をも愛する大切さを教えられます。本日の聖書の箇所、第1コリントへの手紙8章1〜6節では、パウロが偶像礼拝の問題を抱えていたコリントの人々に教会がどのように関わっていくべきか、またイエス・キリストの愛をどのようにして示すべきかを手紙で書き記します。全ての人が神様に創られ、神様に生かされています。全ての人が神様のもとに返される計画を持っていることをさらに学んでいきましょう。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 C 『神の感動によって』 |
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マタイによる福音書 22: 23-33 |

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4月 27日 2008 |
「千の風になって」の歌に、多くの日本人が心惹かれています。「私のお墓の前で泣かないで下さい。私はここにはいません…。」 それは、私達人間誰もが抱く「人は何のために生きて、死んだら一体どこへ行くのだろうか?」という疑問に語りかけるものがあるからです。これは、日本人だけに限ることではなく、世界の人々に通じるスピリチャリティーであり、自分の死と共に、愛する者の死に対していろいろな疑問を持っているからです。本日は、マタイ22章、23〜33節を通して、世代を超えて神は、神でい続けられ、神は歴史の初めから終わりまで支配されている永遠の神であるということを学びます。また、「長崎バプテスト教会」―『信仰告白』(1947)の第1章「聖書の権威」―「聖書は神の感動によるもので….」の箇所と、ルカ24章、13〜35節の中で2人の弟子に復活されたイエス様が現れ彼らに語りかける箇所から、神様は、私達を愛するが故に、私達人間がたくさんの罪を繰り返し犯し、神様から離れてしまうことがあっても、決して私達のことをあきらめることなく、ひとりも滅びることがないように神の一人子、イエス様を遣わして下さり、さらに聖霊を遣わし、私達が真理を知り、神様の下に帰ることができるようにいつも関わり続けておられること、また神様が、私達をいつも思っているその心が、この「感動」という言葉に込められているということを学びます。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 B 『聖書に聴く』 |
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詩編 119:105-107 |
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4月 20日 2008 |
あなたがもし「聖書とは何か」と問われた時どう答えるでしょうか?神様は、私達一人一人にこの人生の中で、私達がなぜ生きているのか、私達が一体どのような生き方をすれば豊かな生活、結婚生活、歩み、人間関係が生まれていくのかを聖書を通して語りかけて下さっています。聖書は、英語では「The
Bible」と言います。元々は、ラテン語の本、書物という意味のビブリアという言葉からきています。その言葉に、定冠詞のtheが付くと、「唯一の、これしかない」という意味になり、神様から私達に与えられた唯一の神の言葉という意味になります。一人一人の人生の中において、私達に与えられる時間や賜物やさまざまなことを本当に豊かに用いるためには、この神の言葉である聖書を親しみを持ってまた真剣に読み続けることで、主は私達に日々語りかけて下さいます。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 A 『 名誉ある「あだ名」 』 |
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信徒言行録11: 19-26 |

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4月 13日 2008 |
多くの人が、人生の中で何らかのあだ名をつけられた経験をしたことがあると思います。本日学ぶ聖書の箇所、使徒行伝11章19〜26節には、キリスト者、クリスチャンという呼び名も「イエス様は救い主だと事あるごとに言っている連中達だ」ということからつけられたあだ名であったということが書かれています。イエス様を裏切ったユダの代わりに12弟子に加わったステファノは、「イエスこそ真の救い主である」ということを歴史の中で大胆に語りました。その中でさまざまな迫害を受けましたが、最後まで信仰を捨てずに、迫害する人々のことを祈りつつ殉教していきました。プロテスタント、バプテスト、切支丹という名前の背後にも、さまざまな迫害の中にあっても彼らの意志を通して行った先駆者達の信仰の固さの物語があります。あだ名は、本来は人をののしる材料でありましたが、しかし信仰の証をするものへと変えられていきました。私達も、多くの先駆者に習い、どんな時代にあってもイエス様のことを私達の救い主であると証ししていく者でありたいと思います。
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「わたしたちは何者か!? -
長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 @ 『 イエスこそ主 』 |
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信徒言行録10: 34-43 |

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4月 6日 2008 |
私達の結婚生活が豊かになるひけつはいつもハネムーンのつもりでいることだそうです。つまり結婚した相手に「あなたと出会えてよかった」「あなたと結婚してよかった」といつも愛を告白することだそうです。私達の信仰生活も結婚生活に似ています。私達の信仰生活もハネムーンでい続けるためには、ひとりひとりが、もう一度私達の言葉で「神様本当にありがとうございます」「神様、私はイエスキリストを私の救い主と信じます」と、いつも、いつまでも、御国に行くまで神様に信仰告白をし続けるということです。本日は、ペテロの3つの信仰告白を通して、私達の持つべき信仰生活を学んでいきます。私達ひとりひとりは弱く、時代の中で翻弄され、私達の環境が変わる時に私達の信仰さえうずまってしまうものであります。しかし、ペテロが神様の前で繰り返し信仰告白をしていく中で、またコルネリアスとの出会いを通して成長し、真理を悟るものと変えられたように、私達も神様に日々告白し続ける中で、イエスこそ私達全ての人の主であるということを信ずる者へと導かれていきます。「あなたは、今日イエスキリストを一体誰と告白しますか?」この問いを本日共に分かち合っていきたいと思います。
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-十字架から復活への道程-(シリーズ全10回) I『「終り」から「始り」へ』 |
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ヨハネによる福音書20: 24-31 |
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