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礼拝へようこそ

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、    霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。」
  ヨハネによる福音書4章23

説教:友納靖史牧師
  長崎バプテスト教会
礼拝 日曜日 11:02分より
(11:02分:長崎に原爆が投下された時刻)
 

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 『神の栄光・・・「賛美」』

ルカによる福音書 2: 8-20

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11月 30日 2008
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 『聖人か、義人か』

マタイによる福音書 5: 10-12

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11月 23日 2008
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 『その一言によって・・・』

列王記下 5: 1-14

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11月 16日 2008

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 『割れた愛の壷(つぼ)』

マルコによる福音書 14: 3-9

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11月 9日 2008

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 『頂上からの幻』 福沢牧人師

ヨハネによる福音書 17: 20-23

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11月 2日 2008
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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 <24> -最終回- 『「一つ」 となるために 』

ヨハネによる福音書 17: 20-23

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10月 26日 2008
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- 老いは恵み - 前田文生伝道師

コリントの信徒への手紙U 4: 7-18

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10月 19日 2008
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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 <23> 『- 神の招きに応える -』

ルカによる福音書 14: 15-24

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10月 12日 2008
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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 <22> 『-自ら義務を果たす-』

ローマの信徒への手紙 13: 1-7

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10月 5日 2008
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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 <21> 『-送り出される「主の日」-』

マルコによる福音書 16: 1-8

 

 

9月 28日 2008

私たちが使っているカレンダーは、月曜日から始まっているでしょうか?それとも日曜日から始まっているでしょうか?私たちキリスト者にとって日曜日は、主の初めの日です。ユダヤ教では、土曜日が安息日として守られていましたが、私たちキリスト者は、日曜日を安息日として2000年以上守り続けてきています。神様も天地をお創りになられた時に6日間働かれ、7日目に魂の安らぎを得ることが大切であると休まれました。マルコ16章1〜2節「週の初めの日に朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」とありますが、このイエス様の復活の出来事が、日曜日が主の日の始りであるということになりました。イエス様は死んで終わりだと思っていたにもかかわらず、3日目に復活されたので、そのことを思い出すためにキリスト者は、主の日に集まるようになった。それでは、主の日、主日礼拝はなぜ大切なのでしょうか?大切な理由を3つあげてみましょう。1つ目は、私たちが、主イエス様に出会う日だからです。私たちが本当に豊かに人生を過ごすためには、主の御心を知って、その御心に従って作りかえられるからです。2つ目は、主に奉仕するためくるたっめの日であります。日曜日は(だけとはもちろん限りませんが)私たち一人一人に与えられた賜物を生かす日でもあります。3つ目は、送り出される日であります。それは、イエス様が弟子たちに、そして私たちに最も望んでおられるのは福音宣教を行いなさいということです。教会だけに留まらず、主からいただいた賜物を使い共に福音を述べ伝えて参りましょう。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 S 『-確かな約束-』

マタイによる福音書 3: 13-17

 

 

9月 21日 2008

 

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『-献身者が起こされるように』 梅野恵美子師

ローマの信徒への手紙 10: 14-21)

 

 

 

 

9月 14日 2008

 

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 R 『-そのたびごとに、新しく-』

マルコによる福音書14: 17-26 (コリントの信徒への手紙T11: 23-28)

 

 

9月 7日 2008

本日は、長崎バプテスト教会『信仰告白』シリーズ7番目の「バプテストと晩餐式」より晩餐式のことについて学んで参ります。月に一度行われる晩餐式を、クリスチャンにでない方は、一体何だろうかと不思議に思われたことがあると思います。また、それ以上に、その晩餐式になぜあずかることができないのだろうかと思われた方がいらっしゃるかもしれません。このバプテスト教会では、主イエス・キリストを救い主として信じ、本当に心からクリスチャンになってよかったと心から思える人々が、自分の意思によってキリストの象徴であるパンと葡萄酒を受けるということを大切にしています。聖書をみると、主の晩餐式についての記事がいくつもあります。第1コリント11章23〜24節は、パウロ先生が主の晩餐式の意味について伝えている箇所の1つです。この聖書の箇所の中には「..わたしの記念として行いなさい..」とありますが、これは、過去に起きた出来事を今後忘れないようにするために心に留めるためのものという印象を受けてしまいがちですが、実際パウロ先生がおっしゃられようとされたことは、“Representation”、「再提示」という、もう一度再び私たちに見せるという意味を持っています。どういうことか申しますと、月に一度晩餐式をすることは、私たちクリスチャンだけでなく、全人類のために命を捧げて下さったということを終わってしまった過去に焦点をあわせ、2000年前にイエス様が私たちのために十字架にかかられたのだということを思い起こすためのものではなく、今生きている私たちがイエス様の犠牲によって、今こうして生かされているのだということを、現在の出来事として思い起こすことなのです。本日は、このことについて、他の聖書の箇所もみながらさらに深く学んでいきます。

 

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 Q 『-自分の務めを果たす-』

テモテへの手紙U4: 1-5

 

 

8月 31日 2008

長崎教会の中心におられる方は、主イエスキリストです。また世界中の教会の中心におられるのも主イエスキリストです。私達は、今主イエスキリストに忠実に従うこの人生の歩み、教会の歩みについて毎週共に教会の礼拝を通して学んでいます。本日は、長崎教会『信仰告白』6、新約教会の最後の部分「..新約教会の役員は牧師と執事であり、その職能はテモテとテトス書が示す通りである」という箇所より、教会の中での牧師と執事の役割について学んで参りたいと思います。パウロの書いた第1テモテ3:1〜7、及び8〜13節の中では、監督の資格、奉仕者の資格について語られています。ここで共通していることは、教会に集う人たちを教え育む必要があるということです。家庭の中で親が子供を教え、育むようにただ愛情だけを注ぐだけでは十分ではありません。時より神の裁きについて語らなければならない時もあると思います。もし間違った方向に向かっている人がいるならば、親が子供を必死の思いで正しい方向に向かわせるように、信仰の歩みにおいても、私達は、キリスト者として信仰の思いを伝えていかなければなりません。本日の聖書の箇所では、パウロは、テモテにそして私達に「どんな状況にあっても主イエスキリストは私達と共におられることを述べ伝えていかなければならない」と力強く語っています。バプテストではキリスト者は、一人一人が奉仕者であり、宣教者であると言われています。家庭においても、またどこにあってもその役割を恐れずに担っていきたいものです。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 P 『-聖なる"教会の目的"-』

サドルバック教会短期宣教チームの証と賛美(Saddleback Church P.E.A.C.E. team)

出エジプト記40: 34-38

 

 

8月 24日 2008

本日は、アメリカのサドルバック教会の兄弟、姉妹を迎えて礼拝を守ることができることに感謝します。本日は、また北京オリンピックの閉会式でもあります。閉会式というと聖火が消える瞬間でもあります。オリンピックは限られた期間ですが、私達の信仰の火は決して消えることはありません。長崎教会も信仰の灯が消えることなく106年続いてきました。本日の聖書の箇所出エジプト記40:34では、主の幕屋つまり今で言うと教会のことを語っています。私達は、61年前に書き記された長崎バプテスト教会の信仰告白をシリーズで学んでいますが、本日は、教会の目的は何であるのかを見ていきたいと思います。1つ目は「聖なる交わり」です、次に「礼典(バプテスマ/主の晩餐)」、最後に「聖支配に従う」ことであります。2008年の本教会の目的は、サドルバック教会のリックウォーレン牧師の著書「人生を導く5つの目的」の中で記された5つの目的にされに2つ加え7つの目的を掲げています(@礼拝A教育B伝動C奉仕D交わりE祈りF休息)。本日の聖書の箇所、出エジプト記40章、34〜38章では、私達がどれだけ忠実に主の命令に従うかどうかが試されています。聖なる教会の目的とは「主に従う」ことです。神様が私達のために準備しておられることに素直に従うことです。本日は「主に従う」ということはどういうことなのかさらに深く学んでいきたいと思います。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 O 『-自ら決断する-』

コリントの信徒への手紙U 9: 6-8

 

 

8月 17日 2008

現在、北京オリンピックが行われています。1つ気がついたことに、オリンピック選手の2世の活躍です。また、多くの選手が家族愛に支えられて活躍しています。そのような選手達は、より望ましい環境で育ちましたが、しかし最終的には、自分たちが種目を選び、オリンピックを目指す決断をしました。教会においても、クリスチャン2世と言われる人が多く育まれてきています。たまたま生まれた家がクリスチャンホームであり、気がついたら毎週教会に来ているという人もいると思います。たまたま行った教会がバプテスト教会であったとしても、バプテスト教会で大切なことは、「自ら決断」して洗礼/バプテスマを受けなければならず、教会の信仰の基盤にあります。長い歴史の中でカトリック、またプロテスタントの教会の中には、親の意思で幼児洗礼をすることがあり、クリスチャンホームに育てば、みなクリスチャンになるということもあります。しかし、バプテスト教会は、子供が自ら決断して選び取るまでは、親であっても決して信仰は強要しない、信仰は親が与えるものではないということを大切にします。それは、私達人間がその命の行先を決めるものではないからです。神様に全てを委ねるのです。本日は、「自ら決断する」信仰の大切さをさらに深く学んでいきます。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 N 『-永遠の神-』

ヘブライ人への手紙 5: 7-10

 

 

8月 10日 2008

本日は、「信じる」「永遠」という言葉に焦点を当てて御言葉を分かち合いたいと思います。「信じる」という行為には2つの段階があります。第一段階は、自らの体験を通して「信じる」ということです。第二段階は、自らの経験を超えて「信じる」ということです。私達には、体験できないことを信じる、つまり天の国のことです。死を超えて永遠の命があるということを私達が体験によって信じるということは私達にはできないことです。私達が、永遠の命を信じる、見えない神を信じるということは「信じる」という行為の第二段階のステップをふまないといけないことであり、また私達の決断にあり、まさに見えない神の聖霊の御業であり、神が働かなければ決して自分の力ではできないことであります。イエス様が御子としてこの世に遣わされた目的の1つは、私達人間に「永遠」という世界を伝えるためであったことを私達は御言葉を通して知らされています。また、イエス様は、私達人間と同じような肉体の苦しみ、死への恐怖も味あわれ、十字架で苦しみを受けられました。本日の聖書の箇所、へブル人への手紙5章7〜10に語られていますが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、私達に永遠を思う思いを呼び起させる出来事の1つでした。またイエス・キリストの生涯をみる時、ラザロの死からの復活など、イエス様が数々の奇跡を起こされたその目的は、私達の信仰、永遠を思う信仰を呼び覚ますためでありました。本日は、そのことについてさらに深く学んでいきたいと思います。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 M 『-平和と聖化-』

マタイによる福音書 25: 1-13

 

 

8月 3日 2008

「聖化」という言葉は、「聖なるものとされていく」という意味でホーリネス教会ではよく使われますが、バプテスト教会では、「聖霊の充満」「聖霊の満たし」という言葉が使われます。第2次世界大戦中、教会の礼拝の前に、アジアの中で、日本が一番とする天皇を神とすることを是として礼拝をしました。戦後、そのことを悔い改め、長崎教会『信仰告白』が書かれ、今その内容をシリーズで学んでいます。本日は、「聖化」という言葉を学んでいきます。聖化とは、信仰が燃やされ続けるという意味です。イエス・キリストを信じたとき、罪が赦されますが、私達は神様に喜ばれる生活をおくるよりも、神の子とされているにもかかわらず、肉の弱さ故、惰性の中で信仰生活を送り、神様、信仰生活を優先させることができないことが多々あります。キリストに似るものに、また一歩ずつ日々神に喜ばれる生き方を続けていくのが大切です。本日の御言葉、マタイによる福音書25章1〜13節は、私達が神の門の前に立ったとき、安心して御国に入るにはどうしたらよいのかということを今一度問いかけてくれます。キリスト者として、神の前に色々な闘い、つまずいたこと、そむいたことなどたくさんあると思います。しかし、最後に、神の御国に入ることができ「ありがとう」と言えるような生き方をしなさいとイエス様は私たち一人一人に語られています。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 L 『-全人的信仰-』

ペテロの手紙一 1: 13-16

 

 

7月 27日 2008

一体私達は、脳の何パーセントを使って生涯を終えるのでしょうか?実は、一般的には3〜10%、アンシュタインでさえ12%だったらしいと言われています。私達は神様から与えられているものを想像以上に使い切っていないようです。聖書テサロニケの信徒への手紙T5章23節では、「あなたがたを全く聖なる者として下さいますように。また、あなたがたの霊、魂、体も何一つ欠けたところのないものとして守り、私達の主イエス・キリストの来られる時、非のうちどころのないものとしてくださいますように..」とありますが、多くの人が、神に与えられる聖さを使うことなく生涯を送っているかもしれません。教会生活は、子供からお年寄りまでお互いに刺激しあい、体が活性化されます。私達は弱く、罪深く小さい存在ですが、聖書、イエス様の聖さ、神の全能を通し御業を見ること、また神の聖さ、力にふれることにより、私達が高められていきます。聖書の中には、「全く聖なるもの」の表現が何箇所もあります。「聖なるもの」とはギリシャ語ではハギオスと言い、へブル語では「神に選ばれた」「神のものとなる・・Holiness神の所有となる(聖くなる)」という意味が含まれます。聖書は私達に、全人的に、全てを祈り、愛し、信じる..そのように生きなさいと祝福して下さっています。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 K 『-救いのステップ-』

ペテロの手紙一 1: 3-11

 

 

7月 20日 2008

本日は、ペテロの手紙21章3〜11節を学ぶ前に、ヨハネ3章1〜3節のイエス様とニコデモの対話が描かれている箇所に少し触れたいと思います。ニコデモは、ユダヤ教において特別な地位にありましたが、イエス様に、「地位、歴史的知識、神学的知識がたとえあっても人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」と言われ衝撃を受けます。「新たに生まれる」とは、日本語では「新生」、英語では、「Born again」と呼ばれる。キリスト教は、輪廻を説かないゆえ、人生は一度だけ、その中で生まれ変わるように聖書は私達に語りかけます。長崎教会『信仰告白』シリーズD(悔い改め、信仰、新生、聖化、選び)「人は救われるためには真剣なる罪の悔い改とイエスを救い主と信ずる絶対信仰により再生しなければならない」と救われるために2つのステップが記されています。ここでいう絶対信仰とは、信仰生活をしていく上で、徹底的な信仰、自分自身が持てるだけの信仰を持って信じるということです。聖書は、信仰は感情ではなく神の恵みであると語っています。本日の聖書の箇所、ペテロ第1の手紙1章3〜9では、ペテロは、私達が天国に帰る時、私達の肉体の弱さ不完全さが、イエス様に贖われて初めて完全な救いを得るということをステップごとに表しています。このステップを踏んでいく時に私達は完全な救いを得るのです。本日は、その救いのステップについてさらに詳しく学んでいきます。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 J 『-恩寵〈神の一方的な恵み〉-』

エフェソの手紙一 2: 7-10

 

 

7月 13日 2008

「棚から牡丹餅」という言葉は皆さんも聞かれたことがあると思います。これは、「思いがけない幸運が与えられる」と一般的には解釈されますが、最近では「たなぼた式」と言い、元々の意味から正反対の、「努力をしないで何かを得ようとする」というあまり肯定的ではない意味に解釈される時もあるようです。本日の礼拝では、「恩寵」という言葉を学んでいきます。これは、違う言葉で言うと「神の一方的な恵み」という意味が込められています。長崎バプテスト教会「信仰告白」四、贖罪と義認にも恩寵についてこう書かれています「…..イエスの贖罪の死と復活を信ずる信仰によりてのみ全き救いを受け、永遠の生命に至る。これは神の恩寵のみによるものにして人の業にあらざらるを信ずる。」 これは、私達が救いに預かれるのは、決して私達の努力であったり、りっぱであるから、人より優れているとかの理由ではなく、ただ神様の一方的な恵みによるのであるということを語っています。本日の聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙2章7〜10節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではな、神の賜物です。」とありますが、私達は、神様からいただく恵みを受けとめ、神様に従い、信仰によって祝福を受けつつこれからも歩み続けていきたいと思います。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 I 『-愛するがゆえに-』

ヨハネの手紙一 2: 1-2

 

 

7月 6日 2008

先日の秋葉原のような事件が起こると、私達はいろんなことを思わされます。一体どうしてあんなことが起きるのか?一体人間とはどんな存在なのだろうか?日本社会では、「人間とは?」と尋ねると儒教の影響もあり、性善説、性悪説の2つに区分されます。キリスト教においてもカトリックが長く原罪という言葉を使ってきたため、それはよく誤解され子供を悪魔のような捉え方をして躾をしてしまったというようなことが歴史にも残っています。本日は、「愛するがゆえに」というタイトルで、長崎教会「信仰告白シリーズI」を学んでいきます。「信仰告白三、人間の堕落では、「我ら人間は神の像にかたどり、聖き創造されたが、神への不従順により、罪に堕ち、永遠の滅亡に定められたことを信ずる」とあり、まるで私達が永遠の滅亡に定められたようですが、本日の箇所、「信仰告白四の贖罪と義認」とTヨハネの手紙2章1〜2節を読むと、私達人間は、神に似せて造られ、神が唯一の存在であるように私達も唯一の存在であり、神は、私達人間に霊、命の息を吹きいれ聖いものとして下さいましたとあります。しかし私達はその神の言葉に従わず自分勝手な生き方をしてしまいましたが、神様はひとり子イエス様を送って下さり、「愛するがゆえに」どんな罪人であっても、イエスキリストが十字架で死んで復活されたことによって、私達は、「それを信ずる信仰よりてのみ」全き救いを受け永遠の命に預かれることをさらに学んでいきます。

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「わたしたちは何者か!? - 長崎教会『信仰告白』 シリーズ -」 H 『人生の分岐点 ー 従順 − 』

ローマ人への手紙 1: 1-7

 

 

6月 29日 2008

私達の人生には分岐点があります。みなさんは、後々考えてみると人生の分岐点になったようなさまざまな体験をされてきていると思います。ローマ人への手紙5章:19節では、「1人の人の不従順によって、多くの人が罪にされたように、イエスキリストの従順によって多くの人が正しいものとされたのです」とあります。これは、アダムとイブがエデンの園で禁断の実を食べてしまった様子を説明しています。アダムもイブも自分の罪を認めず人のせいにしてしまいました。また、私達も彼らと同じように人のせいにする弱さを持っています。ローマ人への手紙6章:16〜18節では「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死にいたるか、義に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と語ってあります。私達も毎日の生活の中で、二者選択を常に迫られているのではないでしょうか。神様が私達に語っておられるのは、私達が神様の声に聞き従うには、「まだ十分に間に合う」ということです。またそれには、「信仰告白」が必要です。人生の分岐点がまさに「信仰告白」なのです。この世の中で、信仰告白をすることは困難なことです。しかし、イエス様は「私は、あなたを助けよう」と手を差し伸べて下さっています。今、神様はあなたに、御言葉を通して新しい歩みを始めるように語りかけて下さっています。勇気をもって神様に聞き従って参りましょう。

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「一粒の麦」

奥村愛牧師 多良見 キリスト教会

ヨハネによる福音書 12: 23-26